毛利博物館


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企画展「萩藩のなりたち」の見どころ(1)
更新日:2020年06月11日(木)
徳川家康が毛利氏に与えた起請文
周防・長門を「進置」と記した部分
約束を違えたら記載の仏神の罰を受けると書いた部分
家康の署名と宛名の輝元父子
毛利氏が支配した萩(長州)藩のなりたちを紹介する、企画展「萩藩のなりたち」の見どころを紹介します。

まず見ていただきたいのはこれ!
あの徳川家康が、関ヶ原合戦の直後に、毛利氏と和睦し、その証に、毛利輝元へ防長2か国を与えると約束した起請文(きしょうもん・重要文化財)です。

わずか数行の短い誓約書ですが、文面から、背後で高度な駆け引きがあったことがわかる、貴重な一通、歴史的に重要な史料を多く所蔵する蔵する毛利家でも、最も貴重な古文書の一つです。

見どころその1 第1条の防長2国を与える条文
与えるを意味する「宛行(あてがい)」ではなく、「進置(まいらせおく)」と記されています。
これは、この段階の家康が、豊臣政権の大老に過ぎず、主君である豊臣秀頼を差し置いて「宛行」という言葉を使うと、秀頼の地位を脅かすと周囲に勘ぐられることを恐れたためです。一方では、「安堵」ではなく「進置」とはっきり書いていますから、これは、秀吉ではなく、家康が与えるのだ!というところははっきり主張しているところもミソです。

見どころその2 宛名の記載
家康の名前は日付の真下、なるべく高いところに書いています。それに対して輝元を意味する「安芸中納言殿」は、紙の一番下に来るように書かれています。これは、両者はもう対等な大名ではない、ということを示したものです。
輝元の子秀就の名前は「毛利藤七郎」と記されています。この時期の大老たちは、秀吉から「羽柴」の名字を与えられていましたから、本来なら「羽柴安芸中納言」「羽柴藤七郎」と書くのが正式でしたが、秀吉の影響を排除したい家康は、あえて「羽柴」の名字を無視し、輝元もそれを受け入れ、家康の時代が来たことに納得しているのです。

この起請文は、徳川氏に次ぐ勢力を誇っていた毛利氏が、家康に屈服したことを内外に示す仕掛けがあらゆるところに施されています。
戦国の乱世を生き延びた、百戦錬磨の武将たちが繰り広げた、丁々発止のやりとりが、このわずか数行に籠められているのです。

ぜひこの機会に毛利博物館でご観覧ください。公開は7月12日までです。
なお、この資料に関しては、『ほうふ日報』5月27日号で、詳しく紹介していますので、こちらもご参照ください。